歩いてみよう

子飼界隈を探索しよう

子飼の渡し、蚕養の渡し
本格的な橋は大正14(1925)年に出来たが、 それ以前は仮橋的な千鳥橋で水害の度に流れて、舟に依る渡しが欠かせなかった。今の橋の下辺りである。蚕養の渡しはここから500m上流の熊大工学部の裏 手にあたり、古代官道が通り蚕養駅がおかれていて肥後国府に通じていた。今の此の地も古代蚕養地域の範囲にあったと思われる。
立田口
江 戸時代初期は建町のところ、立田口大神宮がありますが、あとでは子飼の豊後街道の六ツ角辺りを立田口といい城下町の東限で立田口方面の出入りとして、松雲 院町口に番所があり警備、監視がされていた。何事かあると版木を打って知らせ、近辺の侍が駆けつけることになっていた。
薬園町、蕃滋園
細川重賢の宝暦の改革の一つとして薬園が設けられて薬草学の確立と振興を図った所、明治23年150種ほどが五高に寄付される。
久本寺
法華宗の寺、細川忠利入国のあと創建。神風連松井正幹、古海良作、米村勝太郎の墓、西南戦争龍口隊隊長中津大四郎の碑丹辺総次郎文林道創始者、肥後考古学会会長の墓
子飼商店街、レトロ通り
昔 は松雲院、細川刑部邸、護念寺、浄照寺と侍屋敷、明治以降商店街が出来て学生と荷馬車が通るだけの町が、戦後野菜を大安売りする店が出現して熊本の台所と して爆発的な賑わいのある商店街に変身した。この道筋は北東から南西に走る町建で豊後街道の通行者や周辺の侍と熊本城を直接的に結び立田口を警固する意図 からこの形にされたという。
松雲院
臨済宗大本山南禅寺派の寺。本尊南釈迦牟尼如来脇仏文殊、普賢菩薩、安産、火除けとして有名な十一面千手観世音菩薩増そしてその観音堂に龍の天井絵がある。細川藩筆頭家老松井家ゆかりの寺である。島原の乱の戦死者松井外記、志水加兵衛の墓、足利義輝の子道鑑の墓がある。
護念寺
浄土宗の寺慶長6年熊本城築城のとき、清正が鬼門除けのため築城の材木を分け与え、元和2(1616)年建立した。本堂の天井梁に朱で蛇の目が入っている。
浄照寺
浄土真宗、本尊阿弥陀如来立像。慶長7年小倉で開基。細川忠利と共に肥後へ。忠利の死のとき台所役人宮永勝左衛門はこの寺で切腹殉死した。
細川刑部邸
忠利の弟興孝が始祖。三代興知が兄の室のため子飼に別荘を建て、のち下屋敷とし十一代興増が今の形に整えた。ここから見る白川、阿蘇の眺めは素晴らしく春松閣十五景の絵が残されているという。建物は熊本市へ寄贈され城内に移っている。
厨川白村旧居
明 治、大正の文明批評、文学批評に足跡を残した人。漱石のあと、明治37年東大英文科トップ卒業25才、9月五高教授3年過ごす。ここで嫁を迎え一男を設け た。あと三高教授、アメリカ留学、京大教授。著書多数、一流のジャーナリストとして活躍。関東大震災で被災し死す。「厨川白村全集6巻」がある。
火焚丁
この辺り御切米取の小さな家が並んでいた。
薬師堂、薬師丁
東光山正法寺 和銅2(709)年建立、天台宗寺院。寛永年間蓮政寺三世日選と法論し破れて日蓮宗になったという。本尊は薬師如来、行基作と伝える。この寺の東西の通りを薬師丁といった。子飼の薬師として子を持つ親に親しまれていた。
源空寺
浄 土宗、筑後善導寺末寺。西南戦争で焼け第二次大戦中強制疎開、昭和46年本堂落成。本尊弥陀三尊立像、開山信連社錦公貞挙の墓、神風連沼沢広太の墓、があ る。明治、大正期の教育者中島半次郎はこの寺でうまれた。堅山南風も家が没落した明治37年春、この寺に住んで新聞配達をしたという。
障蓋(さぶた)
旧細川邸の裏手と極楽寺の近く裏手に残っている。白川の岸に降りる道があり、洪水のとき浸水を防ぐため、厚い板を差し込み水を止めていたもの。
鋤身崎町
子飼商店街の通りと妙体寺町荘厳寺から南へ通る道で形造る三角地帯の先忍法寺の所が突形を成して鋤の身の先に似ているとして町名になった。今は西子飼町。この内は小路がいくつも通り昔のままの形が残っている。
南覚丁
鋤身崎町の中の豊後街道から南へ三本の通りを言う。通りの西荘厳寺の所に昔天台宗の南覚院という寺があったことに由来するという。この辺り天文の頃(1532 - 1554)竜造寺と島津の戦いがあったところといい南覚丁の辺りは戦死者を埋葬した所と伝わっている。
内検丁(うちけんちょう)
藩の検地や年貢取り決めなどに携わった役人が住んでいたところ。
極楽寺丁
法王山随性院元は碩台小学校地まで含んでいた。浄土宗、善導寺末寺。寺の正面から西北に通る道が極楽寺丁。本尊弥陀座像、豪潮建立の宝匡印塔がある。
荘厳寺(しょうごんじ)
浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。寛永3年池泉建立、天台宗南覚院が前身という。竜造寺、島津戦いの所という。山門は二脚式の立派な楼門である。
忍法寺
西子飼町三角形の先端にある寺。三角寺ともいう。慶安元(1648)年鹿子木寂心の孫了閑開基。本尊阿弥陀如来立像、江戸相撲大関阿蘇ケ嶽桐右衛門の墓がある。
妙体寺
真光山、日蓮宗明治13年妙体寺あるをもって町名となった。はじめ天台の寺。承応2(1653)年再興、寛文2(1662)年妙体寺と称した。蓮政寺末寺。江戸時代は毎年元日に藩の足軽が大砲を車に積んで来て鬼門破りの大砲を撃ったという。本尊日蓮座像。
射場丁
妙体寺の南。射場丁、射場新道とあり鉄砲衆、弓衆が住み射場があった。
勢溜(せいだまり)
忍法寺前は広場でその南側に勢溜が設けられ内溝の千反畑の横門があった。

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